恋愛ゲーム、アニメーションはお節介を基調としているのか?
発売が延期しているラブプラスが気になったので、プレイ動画をいくつか見た。なぜか登場人物は必ず特定の他人に関心を持ち、選択肢が生まれエンディングにつながってゆく。ここに違和感を覚えた。それは高度で柔軟性を伴ったお節介で、それなしでは話が進まないのではないかと。
これと似た違和感は考えてみればいくつもあった。例えばこれ。
一巻の一部しかわかっていないが、似たような違和感があった。ストーリーの理論があるかのような気がしてきた。確かに聖書でさえ他人の感情で話が進むことがある。お節介ストーリーとは違い、犠牲と救済がある。何かが違う。
これはイラストにもみられる。
アイドルマスターシンデレラガールズ | バンダイナムコエンターテインメント公式サイト
例えば、ソーシャルゲームのアイドルマスター。仮装した女性が笑顔を振りまいている。イラストの構図を自分で作れば済む話なのに、わざわざお金を払って所有しようとする。売り上げに貢献するだけでそのキャラクターを生み出す源泉であるイラストレーターに直接貢献するわけではない。これはお節介ではないか?それも方向がずれた。
こういった他人のお節介を前提としたさまざまな事柄が存在することに驚く。なぜそういうことが成立するのか?お節介を前提にした作品があまりに多い。特に宮崎駿氏や新海誠氏、なろう系と総称される作品群、PAWORKSが今まで作ってきたアニメーション,数々のライトノベルなど。親切や協調とは違う他人の人生に積極的に介入してくる姿勢がそこにはある。
こういうお節介がうまく働くさまを見続けるのは心地いいかもしれない。しかし、それ以外の展開はないだろうか?お節介を前面に押し出して閉塞感のようなものは生まれないのか?お節介が全く存在しない世界はどんな世界だろうか?