釈迦とニートの共通点
釈迦は世の執着を離れようと世から離れた。他人に対する責任、他人に対して仕事を投げることから離れた。しかし、お布施は受けた。生理学的条件は今も昔変わらないから当然といえば当然か。つまり生存に必要なリソースを理由を設けずに受け取り、ただ進んでいる。
ニートはどうか?ニートはどこにも所属していない。しいて言えば家族か?何か好きなものがあるなり、他の存在から離れるようにしているはずだ。それで家族や他の存在から生存に必要なものを受け取っている。
どちらも生存に必要なリソースを受け取りながら、他の存在から距離をとっている。それなのに釈迦が偉くてニートが無為の存在であるというのは昔のものをいたずらに尊ぶ権威主義の所産だろう。ということは葬式をあげているひとがニートの生存を認めないとするなら、釈迦から小言をいわれてもしかたがないだろう。最も、釈迦は何物にも執着していないから受け流すだろうが。死んで自動的に仏門に入るということがそもそもおかしいのだ。釈迦が言っていることについて何も知らないのにどうして仏門にはいれるというのか?それでは仏門に入るというのではなくただの茶番だ。釈迦がブッタとして認められているのも時間を経たからという点もあるだろう。その当時はお布施を受け取っていたバラモンの一人に過ぎなかったかもしれないのだ。ニートも時間が経過すれば宗教の枠を超えたブッダになるかもしれない。
どちらも他に執着していないことは似ているが、なにか違いがあるのだろうか?